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ひろしま食物語 ひろしま食物語

農家というより「研究家」

2021年11月執筆記事

尾道市向島町
おのみち潮風生姜

原田 裕士/由佳里

 生姜ってすごいんじゃない…? そんなふうに生姜の魅力に目覚め始めていたところに、これでもかと生姜の魅力を説き「生姜ってすごい!」の確信に変えてくれたのが、原田裕士さん、由佳里さん夫妻だ。
 生姜農家を始めて7年目というこの二人、とにかく生姜に熱い。まるでわが子の成長や個性を語るように、生姜のあれこれを教えてくれるのだが「それで? それで?」ともっと聞きたくなるから不思議だ。もっといえば、こちらから質問しなくても、いつまででも話してくれるのではないかと思うくらい、生姜一つで話題が次々と湧いてきて尽きない。
 原田さんの畑は現在、尾道市(向島)に5カ所と福山市に2カ所、計7カ所に点在している。どの畑も海のそばにあることから、自分たちが作る生姜を「潮風生姜」と名付けた。来年には向島を増やして福山を減らす予定だ。

 毎年テーマを決めて実験と考察を繰り返しているという研究熱心な原田夫妻だが、特に大切にしているのが「種生姜」「土づくり」「毎日の管理作業」の三つの柱だ。
 まずは一番の要となる種生姜。「生姜の出来映えは種生姜で決まるといっても過言ではないくらい大事だから、種生姜選びには非常にこだわっています」と由佳里さん。
 品質のよい囲生姜とは「コブが大きく、実が硬く、充実して重い。黄金色で艶があって乾燥していない」といわれるが、種生姜にはその上でさらに「無病で健全である」ことが求められる。種生姜が無病で健全でなければ、そこから畑全体に病気が伝染してしまうかもしれない。だからどんな些細な初期症状も見逃さないよう、選別には目を光らせ、自分の目でしっかり見極めて自信が持てるものだけを植える。
 例えば、凹み一つとっても、その原因が乾燥なのか、虫食いなのか、病気なのかを見極めなければならない。ほかにも原田家独自のチェックポイントが十数項目。秋に収穫して貯蔵し、春に土に埋め、また秋に掘り出すまでの1年もの間、腐ることなく元気でいてくれる力のある生姜を選んでいる。厳しい条件を全てクリアしたものだけが、晴れて種生姜として認められるのだ。
 原田家でも以前は購入した種生姜を使っていたが、どのような畑で、どのような方法で育てられたのか、その過程が全て分かるものが最も安心できるということで、今では結局、自分たちが育てた生姜の中から種生姜にふさわしいものを選んでいる。

 その「種」を育むのに非常に重要なのが「土づくり」。良質な堆肥を惜しみなく使い、生姜の成長を助け、微生物の働きを大切にしている。短期間で一気に育てるのではなく、有機質たっぷりの土の中で、生姜も畑も健康でいられるような環境を整え、ゆっくりジワジワと大きく育てていく。「時間をかけてじっくり育てた方が、生命力のある高品質でおいしい生姜が育つような気がします」。

 植え付けが終われば、収穫までほとんど毎日、見回り、草取り、虫や鳥害獣との格闘、灌水ほか、生姜の生育ステージに合わせた適期管理作業を欠かさない。「とにかく生姜が元気に育ってくれるように。生姜が求めていることに応えてあげるイメージで、生姜の成長を最大限に引き出すために、手間を惜しまず大切に育てています。生姜栽培はとってもシビアちょっとしたことで機嫌を損ねて、枯れたり腐ったりうまく育たなかったり。だからいつも気をつけて見てあげなければ。例えば雑草は生姜にとって百害あって一利なし。草に栄養を奪われ、草に寄ってきた虫にやられてしまう。見回りをしていると『草が生えていて嫌だよ』『虫にやられてしんどいよ』『水が欲しいよ』と生姜が全身で訴えているのを感じます。だから、サインをキャッチしたら、草を抜く、虫を取る、水をやるなど、やれることは全部やります」。言葉を介さなくても、二人には生姜の声が聞こえるのだ。
 「植物もコミュニケーションを取ろうとしているからね。人間の都合で動いたらいかんよ。生姜に合わせんと」とある人から名言を授かり、二人は植物生理学の世界に足を踏み入れたのだという。

 原田夫妻はより良い生姜を求めて毎年さまざまな栽培方法を試しているが、今年は考え方を大きく変えたことが功を奏し、種生姜も自信作で、植え付けのタイミングや水の管理などもバッチリ。出てきた芽も力強く、天候にも恵まれて順調に成長し「6年ぶりに豊作かも」と梅雨入り頃までは期待していた。

 ところが7月、県内で多くの被害を出した豪雨によって、原田家の畑も打撃を受けた。被害に遭わなかった畑もあり、全滅の危機には至らなかったのがせめてもの救いだが、川のように様変わりした畑からポンプで排水し、ジョレン(側溝などの水を含んだ泥などをすくい上げる道具)やスコップで水路を掘って水の逃げ道を作ったり、流れ込んだ土砂を運び出したり、大変な作業に追われた。豪雨直後の取材時には、すでに力尽きた生姜もあり、できるだけ多くの生姜が元気に収穫を迎えられるよう、出来る限りの対策を取りながら様子を見るという状況だった。
 8月にも西日本は豪雨で再び被害を受けた。多くの恵みをもたらしてくれる自然は、時に私たちに牙をむき、その脅威の前に絶望させられることもある。それでも自然に敬意を払い、真っ直ぐに自然と向き合い、私たちの手元に農作物を届けてくれるのが農家である。食材を口にする時、彼らの営みに思いをはせ、心から「いただきます」と手を合わせることを、私たち消費者は忘れてはならない。

 4月に植え付けてから、原田夫妻が雨の日も風の日も猛暑日も…来る日も来る日も見回り、手入れし、見守り、育んできた「子どもたち」は、およそ半年を経て、地中から巣立つ。生姜の収穫は10月下旬から11月下旬まで約1カ月。収穫後は生姜を専用の予冷庫で「寝かしつけ」冬眠させる。
 生姜は収穫後もデリケート。特に大切なのが空調管理。由佳里さんいわく「畑の中で元気に過ごしていたのに、いきなり寒いところに連れて行ったらびっくりするので、これから寝るんだよというのを分からせるためにジワジワと生姜に合わせて庫内環境を整えて、いつの間にか寝ていたという状態になるように」。由佳里さんに子守歌を歌ってもらって、スヤスヤと眠っている生姜の幸せを想像してしまった。
 管理を失敗すると、生姜がびっくりして飛び起き「もう芽が出る時期かな!?」と芽を出してしまったり、つらい環境になじめず傷んでしまったりするので、ストレスなく安心して眠ってもらえるよう、常に生姜が快適に眠れる環境を保ち続けるというわけだ。

 収穫後も、生姜農家の仕事は続く。収穫後の畑に残った軸や根を撤去しているうちに、12月になると堆肥が運ばれてきて、4月まで土づくりが続く。2月頃からは種生姜の選別がスタート。種生姜を一つずつチェックし、形や重さをそろえていく。これが1カ月半くらい続く。並行して、冬にしかできない作業、たとえば、畑を日陰にしてしまう周りの耕作放棄地の木を伐採する、井戸の水を全部抜いて底砂を取り除くメンテナンスをする、機械の点検整備をする、物置小屋を作るなど、さまざまな環境整備を進める。オフシーズンにもやることはてんこ盛りで、あっという間に植え付けの4月が訪れるのだ。

 さて、皆さんは「生姜湯」を飲んだことがあるだろうか。生姜をお湯などで溶いて、砂糖やはちみつなどで甘みを加えた飲物だが、家庭によってレシピはそれぞれで、手軽に生姜湯を楽しめる加工品も販売されている。
 実は、尾道は昔から生姜湯の生産が盛ん。原田夫妻によれば「生産量日本一」といわれているそうだ。それなら原料となる生姜の生産も盛んなのだろうと思いきや、多くは他県産のものを使っているという。そこに注目した地元の人たちの間で、かつて「尾道を生姜の産地にしよう」という気運が盛り上がったことがあったが、当初、原田夫妻はその動きをはたから見ていた。

 その頃、裕士さんは農機具を扱う会社で整備士兼セールスを務めており、周囲の農家から「生姜はつくるのが難しい」「割に合わない」などネガティブな話を聞くことが多かった。「実際はどうなのだろう?」と興味を持った裕士さんは、勤務先に話をして、社内で生姜をつくる部門を新たに立ち上げた。「これだけ農家さんが苦労しているのに、なぜそれに見合った成果が得られないのか、単純に知りたくなって」。
 部門といっても担当するのは裕士さん一人で、自由にできた。しかしその分、何か問題が起きても裕士さん一人で解決しなければならなかった。さらに、これまで通り農機具の修理や顧客対応を続けながら、生姜づくりを掛け持つ形となったため、早朝から生姜の世話をして、昼間は顧客対応、それが片付いたら再び農作業。その後、夜遅くまで会社の倉庫で修理や整備。
 そんなハードな生活にもかかわらず、裕士さんはどんどん生姜づくりにはまっていった。「マイナス面ばかり聞いていたけど、つくってみたら上手にできて、生姜の良いところがたくさん見えました。面白い!本気で取り組んだら、尾道を生姜の産地にできるのではないかと思いましたね」。
 つくる技術さえ確立すれば、買ってくれる企業はあるし、山間に点在する小さな畑を活用して省スペースでつくれる。適正な単価を確保できれば、生姜農家として兼業でなく、専業で成り立たせることができるのでは…裕士さんの中で、次第にそんな夢が広がっていった。

 農作業以外の元来の業務は、代替わりや退職者の引き継ぎなどで増え続けて倍以上になり、社内で生姜をつくり続ける日々もかれこれ数年。就業時間外だろうが関係なく、台風が来れば豪雨と雷の中、畑を見に行く。限界を感じ始めていたのも事実だった。生姜づくりは面白いけれど、知れば知るほど片手間でこなせるようなものではないと、その難しさも痛感していた。最終的に、生姜を諦めるか、会社を辞めるか。裕士さんは二者択一を自らに迫った。
 生姜栽培も整備士の仕事もどちらもとても好きだったが、日々の仕事をこなすのが精一杯で、忙しすぎて思うように動けないことがストレスとなり、何年も話し合った後、会社を辞めた。

 そんな裕士さんを、すぐ近くで妻として見守り支えていたのが、由佳里さんだった。「ここで生姜づくりをやめてしまったら、地域でこんなに一生懸命に生姜をつくる人はいなくなってしまうのではないか。今まで研究して集めた資料を捨ててしまうのはあまりにもったいないのではないか。二人で考えた結果、会社を辞めて生姜栽培を続けられる道を探そうと決めました。身近で見ていて、生姜の面白さや、生姜には夢があることも感じていましたから。『生姜』というレールを、せっかくここまで敷いてきたのだから、これからもつないでいきたいという気持ちでした。生姜に導かれたというか、生姜を選ぶしかないと思えたというか」。
 「農業機械整備士の仕事を17年も続けてきたので、会社を辞めてしばらくは心の整理をするのが大変でしたが、高齢化や後継者不足で農業がどんどん廃れていくことに危機を感じていたし、誰かが引き継いでつなげていかないと…という思いがあったので、自分たちの信じる道に向かって挑戦したいと思いました」と裕士さんは振り返る。

 退職後は、会社の畑を名義変更して引き継ぐことに。といっても、ずっと裕士さんが作業をしていたので、もともと裕士さんの畑だったと思っている地域の人が多かった。
 就農する際は就農給付金や補助金などの支援は一切受けなかった。尾道市で「向島」は対象外地域で「生姜」は対象外作物だったのだ。二人が知りたい情報を教えてくれる「先生」も広島県にはおらず、生姜について語り合える仲間もなく、これまでずっと、二人で手分けしてあらゆることを勉強してきた。「大変だったけど、周りの方に恵まれて助けてもらい、いろいろなご厚意に感謝しながらここまで続けてくることができました」と二人。裕士さんは農機具を扱っていた職業柄、農家の知り合いが多く、就農時もたくさんの人が助けてくれたという。

 退職してからは、二人そろって生姜の産地である高知に何度も通って情報収集に努め、研究に没頭した。会社員時代から生姜をつくっていた裕士さんはもちろんだが、由佳里さんの研究熱もかなり高い。もともと探究心が強く、何事にもベストを尽くす性格だそうで、過去に携わったどんな仕事も自分なりにいろいろなことを調べて工夫していたという。「昔から、起きているほとんどの時間を仕事をして過ごすのだから、仕事を楽しみたいという気持ちがあります。生姜は育てるのがとても難しいのですが、なぜだろう? と考えるのが楽しいですね」。
 写真を撮って、現地の人に話を聞いて、集めた情報を基に二人で見解を議論し、自分たちの畑で試す。そして結果発表を基に反省会をして、仮説を検証し、新たに出てきた疑問を持って、再び高知へ…。
 「何人かのやり方を見ていると、いろいろなことが分かってきます。皆さんそれぞれに個性があって、使う機械一つとっても、何を優先するかも、みんな違います。なぜそうするのか、掘り下げて理由が分かると、思いもしなかった発見があることも。視察時には理解できなかったことも、ふと、点と点が線でつながる瞬間があるので、聞いた話はメモや議事録に残して、常にアンテナを張っています」。
 二人の話を聞いていると、もはや研究家。畑は研究室に、作業着は白衣に見えてくる。二人の生姜談義は帰宅後、家庭でも続くそうで、家での話題はほとんどが「生姜」と「娘」のことだそうだ。そんな自分たちのことを「おかしいですよね」と二人は笑う。

 研究のために高知に何度も通ううちに、二人はある考えを持つようになった。「高知は生姜に限らず農家が元気。生活が成り立つだけの収入も得ていて、意欲的で、こちらまで元気になれます。『食べるもの』は全ての人が生きるために必要な大切なもの。だから農業を営み『食べるもの』をつくる人が、農業を楽しみ、きちんと生活できるような社会であってほしい。そのための道筋をつくるなんて大きなことは、私たちのような小規模な農家にはまだ言えないけど、子どもがなりたい職業の一つとして農業という選択肢が入るといいなって思います」。

 二人は農家であると同時に消費者でもある。だから「食べ物を買う時は、価格だけでは絶対に判断しません。以前ある人に『お金を使うということは、そのつくり手さんを応援しますという意思表示であり、投票するのと同じこと。だから後世に残したいものをつくっている人のために、お金を使いましょう』という話を聞いて、本当にその通りだと納得しました。何かを買う時は、そのような価値観を大切にしています」。

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
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