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ひろしま食物語 ひろしま食物語

最高峰のてっぺんから攻める

2022年4月執筆記事

三原市久井町
梶谷農園

梶谷 譲

 そんな学生生活を送りながら、譲さんが興味を持ったのがバニラビーンズだった。ハワイで暮らす親戚がバニラビーンズを栽培しており、その可能性に魅力を感じた譲さんは、日本でバニラビーンズを有機栽培したいと考えるようになり、その方法について大学で論文を書いた。日本で栽培条件がそろっているのが沖縄県の宮古島だったため、満昭さんの紹介で土地も確保し、宮古島での就農に向けて着々と準備を進めていた。
 そんな時、実家の農園を継いでいた耕治さんが農業を離れることとなった。もともと農業よりもやりたいことがあった耕治さんは、譲さんが戻るなら自分は辞めたいと、別の道を歩むことを決めたのだ。それならば実家の農園を継ごうと、譲さんは、中学校以来の三原市での暮らしに戻ることとなった。2007年、28歳の年だった。
 満昭さんが事故に遭ってからは、きよみさんと耕治さんが懸命に農園を牽引してきたが、耕治さんは去り、きよみさんは譲さんに、好きなようにしなさいと任せた。譲さんは従業員を雇うのをやめて、翌年に妻となる祐里さんと二人で、梶谷農園を再起動した。
 譲さんは有機栽培を目指していたため、理想の土づくりには何年もかかるだろうし、これから三年くらいはろくに育たないだろうからテスト期間だと思ってのんびりやろうという気持ちでスタート。しかし、種をまいて水をやると、早速しっかり育ったではないか。当の本人が一番驚くという予想外の豊作に、急いで売り先を確保しなければならなくなった。
 それまで梶谷農園では8割くらい市場に卸していたため、代替わりの報告を兼ねて、祐里さんと共に市場を訪ねることに。一通りあいさつを済ませたところで、どのような野菜を求めているのかと、市場の担当者に尋ねたところ「簡単だよ。見た目が良くて、安く、安定したものを出してくれればいいから」との答え。「見た目」「安さ」「安定」この三つが大事だという。香りや季節感や個性を大切にする譲さんの理想とは全く違う答えだった。
 そこで譲さんは自分の思いを伝えてみた。海外で学んだこと、自分が目指したい方向性などを話すと、担当者は「そんなの絶対にだめだよ! 売れないし、一番厄介だよ。まさか、有機栽培じゃないよね?」と完全否定。有機栽培だと答えると「勘弁してよ。安定しないし、売りにくいし。最近農業を始める若い子はそうやって変わったことをやりたがるから大変なんだよね」などと、全く受け入れてもらえない。
 なんだ、それ…のっけから自分のやりたいことを全否定された譲さんは、頭に血が上った。スイッチが入った譲さんは、もう止まらなかった。「僕たち農家はあなたの下の立場ではない。僕らが野菜を育てているから、あなたたちは売るものがあるんだよ。僕が何をするかを、なぜあなたが偉そうに決めるんだ! ふざけんな! って、おそらく放送禁止用語みたいな言葉も散々吐いてしまったと思うんですよね(苦笑)」。譲さんの勢いに驚いた先方も「私たちが売ってやっているから君たち農家の仕事があるんだよ」などと反論してきたが、怒りの応酬になるともう互いの意見が交わることはなかった。
 「そんな人に僕がつくった野菜を売ることはできない。両親の代からの付き合いだけど、もう今日で終わりだ!」譲さんは啖呵を切って、市場を後にした。

 市場から帰る車の中で「あなたはすごいことを言ったけど、売り先は全部なくなったよ。どうするの?」と祐里さん。そう言われて冷静になった譲さんは、事の重大さに気づいた。「やばい…今の瞬間に仕事の8割を失った…」。
 さてどうする? 譲さんは頭をひねった。そして「香りや季節感や個性といった僕が求めるものは、料理人も求めているはず。それなら彼らと直接話をするしかない」と思い立った。しかし帰国したばかりで国内につてはないし、当時はインターネットのグルメ情報やガイドブックも今ほど充実していなかったし、料理人につながる情報が足りない。まいったな…。
 そんな時、一冊の本に出会った。とある日本酒の蔵元が、自分でつくった日本酒をワインの本場であるフランスに持ち込み、シェフやソムリエを相手にプレゼンテーションして回ったところ、パリの三つ星レストランのメニューに載せてもらうことに成功。帰国してその事実を発信し続けたところ話題となり、国内でも爆発的に売れたというサクセスストーリーだった。
 「これだ!」譲さんはこの蔵元を参考に行動しようと決めた。「地元から攻めて、一つ星、二つ星、三つ星…と地道に進んでいくのもいいけど、最初にパリの三つ星レストランというピラミッドの頂点に認められれば、そこからの広がり方も早いんじゃないかと思って」。
 そうと決めたら善は急げ。スーツケースに自分が育てたハーブを詰め込んでパリに飛んだ。空港から直行して最初に尋ねたのは、パリの三つ星レストラン「アストランス」。オープン以来常に満席という人気店で、オーナーシェフのパスカル・バルボ氏と対面した。満昭さんもハーブを栽培していたことからフランス料理界にも詳しく、譲さんと同世代で活躍しているシェフがいるからと、紹介してもらった店だった。以前、バルボ氏の師匠の店に食べに行ったことがあり、そこも素晴らしい店だったことから、譲さんの期待も高かった。
 「三つ星レストランは世界中にありますが、全ての店でオーナーシェフ自ら腕を振るっているわけじゃない。バルボ氏は自らキッチンに立ち料理をつくっていて、料理に対する向き合い方にも感銘を受けました。高級レストランといえばシャンデリアにフォーマルなテーブルクロスといったイメージですが、アストランスはもっとカジュアルな雰囲気。だけど食材と技術は超一流。当時パリで三つ星を取っていた10軒全て回りましたが、いろんな意味でアストランスが最高でした」。
 譲さんのハーブを受け取ったバルボ氏は「これらを使って料理してみるから、ちょっと時間をくれないか。ディナーに君の席を用意しておくから食べに来るといい」と譲さんを招待した。あのパスカル・バルボ氏が自分のために1席空けてくれて、自分のハーブを使って料理を振る舞ってくれる…感動は絶頂に達した。あらためてディナーで店を訪れると、目の前にはパスカル・バルボ氏がつくった料理。そこには自分が育てたハーブが丁寧にあしらわれていた。マテ貝のバターソテーに添えられたレモンタイム、火入れの達人と呼ばれる彼が焼いたヒラメにのせられたマーシュ…「もう興奮MAXですよ。今でも鮮明に覚えています」。
 食事を終えると、バルボ氏は譲さんをキッチンに呼んだ。「すごくいいよ。自信を持っていいと思う」ピラミッドの頂点に認められた瞬間だった。
 譲さんはバルボ氏にお願いしてみた。「カナダから帰ったばかりで日本の料理界に全く知り合いがいないので、紹介してもらえませんか」。するとバルボ氏は「僕のキッチンを見てみなよ。君と同じようなやつがたくさんいるだろう」と振り返った。見ると、小さなキッチンで働く5人の料理人のうち、4人が日本人だった。バルボ氏は彼らに声をかけた。「広島の農家さんが来てくれたよ。帰国したら彼の野菜を使ってあげるといい」。さらに、これまでにもバルボ氏のもとで修業して帰国した日本人シェフがたくさんいるから紹介してくれるという。こんなにうれしいことがあるだろうか。記念写真をお願いして、他の三つ星レストランも一通りめぐり、譲さんはパリを後にした。

 帰国すると、バルボ氏との記念写真を使ってポストカードを作り、日本中のレストランやホテルに届けた。「パスカル・バルボが認めたハーブ」そんな文言を添えて。受け取った人たちは「アストランスのシェフが認めた農家だと?」と興味をそそられたのだろう。それから問い合わせが急増した。「自分でハードルを上げちゃったんですよね」と譲さんは笑う。
 当時はハーブが注目され始めていた時期だったが、海外で修業した料理人が帰国していざハーブを使おうと思っても日本ではなかなか手に入らない、そんな時代も追い風となった。バルボ氏が紹介してくれたレストランにも連絡を取り、話を聞いてみると、日本に帰ってからみんなハーブを探しているという。農家に依頼してつくってもらおうとしても、ハーブについて知らない人も多く、種を渡しても技術がないからなかなか良いものが育たないといった悩みを抱えていることが分かった。
 自分のハーブを認めてもらえることが有り難いのはもちろんだが、そんな料理人たちにとっても、アストランスに食べに行くような行動力があり、ハーブに精通している譲さんはとても有り難い存在だったのだ。市場との取引を失った時、譲さんにひらめいた「僕が求めるものは、料理人も求めているはず」という仮説は、ついに証明されたのだ。
 そうと分かれば料理人のニーズを満たすことが自分の使命。譲さんは一人一人から、どんなハーブを求めているのか要望を細かく聞き出した。それに応じて必要な種を取り寄せ、求められた色、味、サイズ、枚数などに個別に対応できるよう、品質や工程を詳細に、徹底的に管理した。そんなシビアな条件に応え続ける中で技術を高め、料理人からの信頼を深め、ファンを増やしていった梶谷農園は、もはや唯一無二といってもいい存在となり、価格競争の世界からは一線を画す農園として成長していくこととなった。
 「農業って、みんなが思うほど難しくないと、僕は思っています。たとえばキュウリやトマトなど、たくさんの農家がつくっている野菜は、何十年もつくり続けているベテラン農家さんにはかなわないかもしれない。でも、誰もつくっていない野菜は、比較対象がないし、僕にしかつくれないものだから」。海外の料理人に対しては、数少ない英語が話せる農家ということもアドバンテージになった。
 さらに、取引先のレストランがミシュランガイドで三つ星を獲得。その後も取引先の星獲得が続くと「梶谷農園のハーブを使うと星が取れる」という噂が広まり、ますます話題となった。

 梶谷農園では満昭さんの代からハーブを栽培していたが、その頃から年末年始の一大イベントとして恒例となっていたのが、春の七草。1月7日の人日の節句に、春の七草が入った七草がゆを食べるという習わしに合わせて、クリスマスから1月5日くらいまでの10日間、何万パックという単位で、春の七草を収穫してセットするという「行事」が執り行われるのだ。
 寝る間もなくひたすら七草と向き合うこの10日間は、肉体的にも精神的にも非常にハードで、終わる頃にはみんな疲れ果てていたが、相当の売上が見込めるもので、梶谷農園の柱ともいえる重要業務としてずっと続いていた。留学していた間も、この時期だけは帰国し、家族総出で、さらに何十人というアルバイトを雇って臨んだ。しかも何十人も住み込みで受け入れていたというから驚きだ。
 年末年始といえば、飲食業界も繁忙期。譲さんの帰国後は料理人との取引も増えてきていたため、年末年始にハーブのオーダーが入るのだが、春の七草の恒例行事でそれどころではない。事情を話してどうにか納得してもらうも、料理人との付き合いが広がるにつれ、なんとかしてくれないかという声も増えてきた。
 譲さんが継いでからこのような年末年始が3年ぐらい続いた頃、譲さんはついに両親に告げた。「もう無理だ。七草は今までうちの歴史的な行事だったけど、やめる」。両親は怒るだろうと思ったが、言わずにはいられなかった。そんな譲さんの発言に対し、家族は「やった! これでお正月に旅行に行ける!」と、待っていましたと言わんばかりに歓喜したという。この反応には譲さんも驚いたが、伝統にがんじがらめになっていたみんなを解放できたという点でも、どうやらこの決断は間違ってはいなかったようだと思えた。
 その頃にはハーブも軌道に乗りつつあったので、七草をやめても経営は成り立つという見通しも立っていた。「もう二度と経験したくない業務ですけど、あの仕事があったおかげで、ハコベラがどこに生えているとか、いろいろな植物の生育状況などを把握できるようになったので、そういった意味では役立っているし、いい経験だったといえます」。

 梶谷農園が成長するにつれ、新たな従業員を増やしていった。「何でも自分で済ませてしまうタイプで、任せようと思っても任せられないし、任せても辞めてしまう。土地もあって野菜も育って買ってくれる人もいるけど、従業員が安定しない。そういったことが続いて、就農して8年目くらいの時に、これが永遠に続くのはちょっとしんどいなって思うようになったんです」。
 そんな時に知人から「英語が話せるんだから海外から呼んだらいいじゃないか」とアドバイスを受けた。なるほどとフィリピンに飛び、面接して二人を雇用することになった。
 それまでは、教えてもすぐに辞めてしまうという経験を繰り返していたため、いつしか辞める前提で教えるようになり、細かく説明しなくなった。説明不足だからやるべきことができていない、だから叱る、それが繰り返されると辞める、そんな悪循環が続き、譲さんは気づいた。「何でできないんだよ! って腹を立てていたけど、彼らができないわけじゃなかった。僕の教え方が悪かったのだと」。
 その反省を生かし、フィリピンから呼んだ子たちには丁寧に指導した。基本的に3年契約なので、教えたことも無駄にはならない。最初の1カ月間を費やして道具の使い方や工程など必要なことは全てみっちり説明。
 「農業って、天才の野球監督みたいに、ボールが来たらバットをぐっと握ってパッと打てばいいからと感覚で教えることもあるけど、うちではそれじゃ誰にも通じなかったから、誰でも理解できて、その通りに作業すれば誰にでもできるというようなレシピを作ればいいのだと思いました。たとえば種を手でまくと、まく人によって違いが出るけど、種まきの機械を入れればみんな同じクオリティーでできますよね。そうすれば大量生産も可能です」。水やり一つとっても時間や量まで分かりやすく記したレシピを作り、機械化できる部分は整備するなど、誰が手がけても一定の品質を管理できる体制を整えていくと、徐々にいい流れができてきた。働いている子が故郷の知り合いを呼ぶなど、雇用に困ることもなくなり、2年生が1年生を教えるという教育体制も確立されていった。譲さん自身が現場で常に目を光らせる必要もなくなり、経営も順調に運んだ。
 時間的にも経済的にもゆとりが出てきた譲さんは、ある日の食事中、家族にこう切り出した。「お父さんから、みんなにいいニュースがあります。2年間、家族で世界旅行に行こう!」。家族はどんなに喜んでくれるだろう…想像しながらリアクションを待つと、みんな「嫌だ」という。うそ!? 譲さんは耳を疑った。友達や学校や習い事はどうするのかと子どもたちは心配している。長い人生、そんなこと気にしなくてもいいじゃないか、ほかにもできる貴重な経験があるじゃないか、そんな譲さんの気持ちをよそに、家族の結論は「今まで通り、年に一回、1カ月で十分」であった。なんだよ、それ…とお父さんが肩を落としたのは、2019年のことだった。

梶谷農園公式サイト
https://kajiyafarm.jp/

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
現在の内容を保証するものではありません。