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ひろしま食物語 ひろしま食物語

どれだけ怒られても、父の背中を追って

2019年7月執筆記事

呉市吉浦中町
もみじ水産

三宅敏郎

 兵庫県南西部の播磨灘、姫路市から約18kmの沖合に、大小40あまりの島々から成る家島諸島が浮かぶ。古くから漁業、海運業、採石業で栄え、中でも坊勢島(ぼうぜじま)は国内屈指の漁師町で、全国有数の漁獲高を誇る。腕利きの漁師たちがひしめく、そんな島で生まれ育ったのが、もみじ水産代表の三宅敏郎さんだ。
 敏郎さんは幼い頃から、漁師である父親新太郎さんの船に乗せてもらい、その背中を見て育った。新太郎さんはもともと底曳き網漁などさまざまな漁を手がけていたが、何か新しいものをと考えて島にちりめん漁(厳密には「しらす漁」だが、もみじ水産の皆さんが話し言葉として使用する「ちりめん漁」に習い、本誌ではあえて「ちりめん漁」と表記)を持ち込み、漁の許可を取り付けて周囲に声をかけ、最初は数軒で始めたという。その後も、本来は法律で漁期が決められているちりめん漁に、年中出られるよう許可を求めて精力的に活動するなど、島の漁業に大きな影響をもたらした。

 漁師だらけの島で、父親も漁師という環境から「迷うことなく漁師になりました。今思えば、子どもの頃は景気も良く漁師はものすごく稼いでいたと思いますが、子どもの自分にはお金儲けのことなんて分かりませんから、ただただ親父ってカッコいいな、親父ってすごいな、親父みたいな漁師になりたいなと憧れていましたね」。
 中学を卒業した翌日、敏郎さんは本格的に漁師として第一歩を踏み出した。長年船に乗って手伝いをしてきたのである程度のことはできるようになっていたし、念願の夢がかなってやる気に満ちあふれていた。
 新太郎さんはとても厳しい人で、漁のノウハウを手取り足取り優しく教えてくれるなんてことはなかった。言葉で説明してくれないので、敏郎さんは仕事を見て覚えるしかなかったが、思い通りにならないとすごい剣幕で怒られ、手を上げられることも。敏郎さんは「沖で何度泣いたか分かりません。自分が情けないのと親父に怒られるのとで」と苦笑い。それでも「思い返しても、よくあれだけのことを我慢したなと自分でも感心するくらい、本当に怖い親父でしたが、どこかに愛情を感じられたんでしょうね。どれだけ怒られても、親父の後を追いかけていましたから」。
 1~2年目は素直に新太郎さんの言うことを聞いていた敏郎さんも、3~4年目になりだんだん知識が増え自負心が芽生えてくると、反抗してぶつかることも多くなった。そんな激しいやりとりを繰り返すうちに、新太郎さんの高い技術はいつしか敏郎さんにも継承されていった。「激しい競争が繰り広げられる島の中でも、魚を取る技術は長けているという自信があったので、こっち(呉)で勝負しようと決断できたんだと思います」。

 家島諸島は姫路港から約30分というアクセスのしやすさから、関西圏の人々を中心に新鮮な海の幸を満喫できるグルメや釣り、カヌー、クルージングなど海のレジャーでも人気のスポット。敏郎さんが20代半ばに釣り堀ブームが到来し、島の漁師たち数軒が、漁業以外の産業の柱に育てようと海上釣り堀をスタート。敏郎さんたちもそのうちの一軒だった。
 これを機に、敏郎さんは釣り堀の経営を任されるようになり、漁は新太郎さんと弟の順さんが担うこととなった。1日200~300人収容できるような規模で、設備投資も大きなものとなったが、多くの観光客が訪れ業績は順調に推移した。
 しかし開業から7年たった頃、大型の台風が島を襲い、敏郎さんの釣り堀施設は一夜にして壊滅。途方に暮れた敏郎さんは、これを機に「島を離れる」という選択に向けて舵を切ることとなった。

 台風以外にも理由はあった。全国的に見れば漁業が盛んな町でも、やはりかつての隆盛を思えば将来に不安は残る。海の環境も変わり魚が減ってきている中で、対する漁師の数はまだ多すぎるくらいで競争は激化。そうなると自ずと時間制限や休日の設定など課せられるルールが増えることとなる。まだ若く漁師として思う存分腕を振るいたい気持ちが強かった敏郎さんは「台風被害から立ち直るためにより一層頑張らなければならない大事な時期に、ルールでがんじがらめにされたのでは何の勝負もできない。それならいっそ島を出て、もっと自由に漁に出られる環境で存分に働く方が、可能性が広がるのではないか」と判断した。

 「もっと自由に漁に出られる環境」には思い当たる町があり、それが広島県呉市だった。呉でちりめん漁を営む髙橋金好さんは以前から新太郎さんと付き合いがあり、情報交換するのをそばで聞いていた敏郎さんは呉にも魅力を感じていた。もちろん当時は自分が呉で漁をすることになるとは夢にも思っていなかったのだが。
 敏郎さんは髙橋さんを頼って、先発隊として単身呉へ。新太郎さんと順さんは島に残って漁を続けることに。「あの時は正直、後先考える余裕なんてありませんでした。行動しないことには何も始まらない。覚悟を決めないとチャンスすらつかめない。来た以上は何が何でも成功させないといけないという一心でした。そのうち島に戻ろうという気持ちもありませんでしたね。逃げ道をつくらなかったからこそ、今があるんだと思います」。こうして敏郎さんの新天地での挑戦が始まった。
 呉に来た当時の印象を敏郎さんは「自然が豊かで、魚が多く、海にまだ力があるという感じでした。そして島に比べて漁師が少ない分、時間制限や定休日などのルールが少なくて、思いっきり働けるのが魅力でしたね」。

 呉に来てからは順調で、台風による被害も5年ほどで埋め合わせることができた。最終的には大きな被害を受け閉めざるを得なくなってしまった海上釣り堀だったが、敏郎さんはこう振り返る。
 「海上釣り堀を始めるまでは、島で育って、島の感覚や考え方、島独自の生活習慣しか知らず、それが当たり前でしたが、姫路、神戸、大阪など島外から訪れるお客さんと接すると、いろいろなことが新鮮で、新しい価値観や街の人とのコミュニケーションなどたくさんのことを吸収できました。漁師以外の多くの方と親しくなって、この人の生き方ってかっこいいなと、初めて親父以外の人に憧れて影響を受けるようになったんです。7年という限られた期間で、金銭的には台風で大きなマイナスになりましたが、長い目で見ればプラスだったと思っています」。
 釣り堀のお客さんとは今でもつながっているという。現在経営者として会社を導く敏郎さんのベースとなる考え方や生き様は、多くの素晴らしい出会いによって築かれたものなのだろう。

 呉に来て1年が過ぎた頃、髙橋さんから急に「船と許可を譲りたい」と切り出された。髙橋さんには息子さんがおり共に働いていたが、後継者には敏郎さんがふさわしいから頼みたいとのことだった。自分で商売したいと考えていた敏郎さんにとっては願ったりかなったり。2年目にして船を持つことができたのは幸運だった。ちなみに髙橋さんの息子さんは今でも漁期になれば手伝いに来てくれるという。髙橋さんが他界した後も、お世話になった恩を返す意味でも、息子さんとのつながりを大切に守っている。
 事業を受け継いでからも黒字経営が続いていたが、社会的信頼を得るために2 0 0 7( 平成1 9 )年に法人化。(株)もみじ水産を設立した。

 漁期には、島に残っていた順さんが応援に駆けつけた。1年ほどで順さんは島での漁を辞めることを決め、正式にもみじ水産の一員に。兄弟それぞれの強みを生かして会社を引っ張っていくことになった。順さんは島に家族を残して10年ほど単身赴任で島と呉を行き来する日々が続いたが、事業の足固めができたため、家族を呼び寄せ現在は共に暮らしている。

 順さんの決意の裏には新太郎さんの病があった。新太郎さんは自ら漁に出ながらも「権利はお前にやるから責任を持ってやれ」と順さんに任せていた。釣り堀が被害を受け敏郎さんが呉に赴くと決まった時も「(このまま島で漁を続けるかどうかは)お前が決めろ」と告げた。
 それとほぼ同時期に新太郎さんのがんが発覚。完治する見込みがないと分かった時、残されることとなる順さんは「新太郎さんの代わりに漁師を雇ってこれまで通り切り盛りできるかというと、島の漁業を取り巻く環境を含め総合的に考えると正直厳しい」と判断した。
 そんな時、呉で敏郎さんが髙橋さんの事業を引き継ぐことが決まり、「向こうで(敏郎さんと一緒に)チャレンジしてみろ」という新太郎さんの後押しもあって、順さんの気持ちは固まった。新太郎さんが永眠についたのはそれから間もなくのことだった。

 順さんも敏郎さんと同じく中学を卒業してすぐ漁師になったが「漁が特別好きだったわけではありませんし、何より親父がものすごく厳しかったから、一緒に仕事をするのが嫌で嫌で」と苦笑い。兄弟そろって「厳しい」と繰り返すのだから、よほどだったことがうかがえる。
 「親父は見て覚えろというタイプなので何も教えてもらえませんでした。自分もあまり覚えようという意識がなくてだいたいのことしか覚えていなかったのですが、いざ自分一人でやり始めると、親父はこうしていたなと分かり始めて、親父のやっていたことが理解できるようになったんですよね。今はようやく親父に追いつけたんじゃないかなと思いますね」。順さんにも、自然と新太郎さんの高度な技術が受け継がれていたようだ。
 二人は年子なので敏郎さんの方が1年早く漁に就いたが、途中から釣り堀を任された敏郎さんは漁を離れ、その後もひと足早く呉に発ったことを考えれば、新太郎さんと船で過ごした時間は順さんの方が長かったことになる。「ちりめん漁の技術は僕の方が上ですよ! でも本人には言わんといてください(笑)」といたずらな笑顔を見せる。
 一つしか歳が違わない男同士、兄弟げんかはしょっちゅうだったという。でも「兄が釣り堀を経営していた時、お客さんにどんなに理不尽なことを言われても頭を下げる姿を見て、この人には絶対に逆らうまい、この人の言うことは一生聞いていこうと決めました。すごい人やなと思って。それからもう20年近く一切けんかはしていません。できた弟なんですよ(笑)」とまたニンマリ。

 そんな順さんは現在もみじ水産の漁業部を率いる「船頭」だ。敏郎さんも順さんを信頼して全面的に任せており、口を出すことはほとんどないという。
 もみじ水産は漁業以外に、自分たちが水揚げしたしらすを使った料理を提供する飲食店を経営しているが、敏郎さんは船の指揮官を後継に譲り、現在はそちらを中心に動いている。順さんは「釣り堀もそうでしたが、兄はお客さん相手の商売が好きなんでしょうね。僕は飲食部については分かりません。でも漁業部の僕らが獲ったちりめんをいかに価値あるものとして販売するかを兄は考えてくれていますから、僕らはできることを精一杯やって水揚げ量を増やし、頑張ってくれる若い子たちが技術を磨いて安定した生活が送れるような基盤をつくりたいですね」と自分の役割を見つめている。兄弟が信頼し合って適材適所で力を存分に発揮していることが、もみじ水産を強くしているのかもしれない。

 ところで、しらすの産地といえばどこを思い浮かべるだろうか。「生しらす丼」を名物として推している江ノ島や静岡などが有名だが、西日本であれば漁をする船も漁師も多い大阪や兵庫が挙げられる。敏郎さんは「瀬戸内海沿岸なら、船は少ないけれど広島のしらすが一番きれいだと思いますよ」と自信を見せる。
 さらに「江ノ島は付加価値を付けてしっかり知名度を上げて生しらすを盛り上げ、まさしく本場のイメージを確立しています。そういった部分は見習うべきですね。漁師たちが沖で頑張って獲ってきたしらすにいかに付加価値を見出すかが課題。価格が下がらないということは需要があるということ。手軽で、保存もできて、栄養もあるという現代に求められる食材でもありますし、これからまだ伸びるはず。自然が相手ですから思い通りに水揚げ量を伸ばすことはできませんが、たとえば今と同じ量でも工夫次第で価値を高めることは可能です。飲食店はもちろん、まだ明確には決まっていませんが、しらすに特化した商品を開発して皆さんの手元に届け、広島といえばしらす、しらすといえばもみじ水産と言われるようになりたいですね」。

 水揚げ量を思い通りに伸ばせない理由は自然相手だからという以外にもう一つ。たとえば今1隻の漁船を2隻に増やし漁をする海域を広げれば、倍の動きができるのではないかというと、そうはいかない。
 ちりめん漁は許可制で漁港ごとに「統」という単位で許可数が決められている。もみじ水産が属するエリアでは合計25カ統の許可があり、そのうち2カ統をもみじ水産は得ている。許可はお金を出しても買えるものではなく、所持者が手放し、その許可を得ることができない限り、手に入れることはできないのだ。
 限られた許可の中でどれだけ成果を上げるかが腕の見せどころでもあり、もみじ水産では社員の育成に力を入れるとともに、必要に応じて設備投資にも取り組むなど、最大限の水揚げ量を目指して創意工夫している。
 今後許可を得られる機会が訪れるかもしれないが、それは計算できない。敏郎さんは「それを当てにするよりは、現在の2カ統で最大限に水揚げし、いかに付加価値を付けて提供できるかを考える方が、会社として成長できる可能性が高いと考えています。僕も経営者としては若い方ですが、もっと若い子の感覚や意見をどんどん取り入れていきたいですね。企業の成長には、同じことを繰り返すのではなく新しいことに挑戦することが大事。そのためには若い子たちが頑張れる環境をつくっていかないと」。
 チームワークの良さももみじ水産が目指すところ。一つにまとまった素晴らしいスタッフとしらすから生まれるさまざまな価値を、もみじ水産の財産としてたくさんの人に届けることが敏郎さんの願いだ。

もみじ水産公式サイト
https://momijisuisan.jp/

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
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