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ひろしま食物語 ひろしま食物語

それでも原木椎茸しかなかった

2019年9月執筆記事

三次市三良坂町
三良坂きのこ産業

石井 千明

 8年前、原木椎茸の生産に大きな打撃を与えた出来事があった。東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故である。食品への影響も甚大で、基準値を超える放射能が検出されたことで関係者は暫定基準値の設定や出荷制限などの対応に追われ、不適切な報道や根拠のない噂による風評被害も深刻な問題となった。
 岩手、宮城、福島、栃木、群馬など原木が豊富に採れる東日本は生産者の数も多かった。福島だけでなく首都圏や東北を含む東日本の広範囲が放射能で汚染され、該当区域の森林で伐採した原木を使っていたたくさんの生産者が調達先を失うことに。別のルートを開拓するにも遠方から調達するとなれば運賃もばかにならず、その後も長きにわたって出荷制限や自粛が続き、やむなく原木椎茸の生産をあきらめた生産者も少なくなかった。8年たった今も原木を伐採できないままという山が未だに残っている。

 福島は日本有数の原木の産地で、事故前は東日本に限らず北海道から九州まで全国に広く出荷していた。広島県もそのうちの1県で、石井さんも当時は福島や岩手など東日本の原木を主に使用していたため、この問題に当事者として向き合わざるを得なくなった。
 まだ事故が発生する前に石井さんのもとへ福島からまとまった量の原木が入ってきたが、事故後に取引業者から「トラック1台分がまだ残っているから」と追加で送られてきた。信頼していたいつもの業者から入ってくることから特に疑うこともなく、通常通り栽培に使用した。まさか放射能で汚染されているとは思いもせずに。
 問題が発覚したきっかけは、地元の大学の先生が研究のために石井さんの原木椎茸を購入し調べたことだった。放射性物質であるセシウムが基準値を超えて検出されたと、すぐさま保健所が駆けつけてきた。石井さんにとっては青天の霹靂だったが、驚いている暇はない。そこからは立ち入り検査や回収、謝罪など関係各所への対応に追われる日々が続いた。
 問題の原木は特定できたためその木から収穫した椎茸を全て回収し、原木も業者に引き取ってもらった。後日きちんと処分されているのか福島まで確認しに行くと、田んぼに積み上げてあったそうだ。
 全ての取引先に頭を下げ、当時は愛知県にも多く出荷していたため現地に何度も通い謝罪し続けた。謝罪行脚で疲労困憊の中、行く先々で容赦ない言葉で叱責され罵詈雑言を浴びせられ、精神的にも追い詰められていった。「あそこまで言われたら、もう取り引きを続けてほしいとお願いする気力もなくなりましたね」。

 謝罪は謝罪としてやるべきことをやったと思った石井さんは、最終的には全ての取引先を一新することを決意。3年くらいは売れない時期が続いたが、知り合いをたどって地道に新規取引先を開拓した努力が実り、徐々に回復していった。
 「福島や宮城の原木は最高に質が良いんです。同じコナラやナラでも質が全く違い、椎茸がよく育ちます。当時から運賃は高かったけれど、それでも入れていたくらいですから」しかしもう入れることはできない。そこから新たな原木を求めて、現在の大分県の原木にたどり着いた。
 「大変なことですよ。たったトラック1台分の原木であんなことになるなんて、怖いですね。今でも向こうの業者さんのところに顔を出すこともありますが、木を切られなくなって、もうほとんど稼働していないようです。それはそれで大変。あの人たちが悪いわけでもないんですよ。思い出したくないくらいの苦労がありましたが、ここまで復活できたのは、そんな中でも支えてくださった皆さんのおかげ。本当に大変でしたが、私も原木しかやってきていなかったし、このままやめてもどうしようもない。なんとしてでも新しい取引先を見つけて原木を続けるんだという意地といいますか、この状況を挽回しなければと必死でしたね」。
 新規取引先開拓にあたり考え方も変わったという。「それまではとにかく売らなければという一心でしたが、それではいけないと思って。原木椎茸には希少価値があるわけですから、その価値を理解して売ってくれるところに託したい」。バイヤーが生産現場に足を運び、こだわって販売し、消費者に価値を伝えてくれる。「だからこそお粗末なことはできません」と気を引き締める。結果的に、安売り合戦に巻き込まれることもなく、石井さんの椎茸のブランド価値は高まっている。

 今回「思い出したくないくらいの苦労」をあえて語ってくれた石井さん。努めて明るく話してくれるのだが、その表情を見ていると、つらい出来事を思い出して話してもらうのが申し訳ない気持ちになった。聞いているだけで胸が締め付けられるようなエピソード。できることならわざわざ蒸し返したくないであろう過去について、記事にすることを許してくれた石井さんの思いをくみ取り、それぞれにもう一度、自然災害や人災についてあらためて考えていただくきっかけになればと思う。

 今後は加工品なども本格的に手がけていきたいという。「(父がやっていた頃は)キノコがものすごい出よったんじゃけぇ。今はその品種がなくなってしまって、あんなに出ることはもうない。私が子どもの頃、父と母は夜中まで仕事していたのを覚えています。その頃を知る高齢の方は未だに、あの品種はよく出よったのぉ~と言いますよ(笑)」。残念ながら現在はそれだけ育つ品種はないという。今とは違う気候のおかげもあったのだろうが、採っても採ってもニョキニョキ生えてくるキノコ天国をぜひ拝んでみたいものだ。

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
現在の内容を保証するものではありません。