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ひろしま食物語 ひろしま食物語

盲腸なんていらない?

2021年3月執筆記事

広島市安佐南区沼田町
ルンビニ農園

今田 典彦

 農業の道を進むと決心した今田さんの覚悟は半端ではなく、それは数々の行動(奇行)に表れた。①頭を丸める ②親知らずを抜歯 ③スノーボードをやめる ④ギターをやめる ⑤盲腸を切除する(未遂)。①以外(特に⑤)は頭に「!?」が浮かぶ人も多いと思うが、今田流究極のリスク管理である。
 「全ては農業に集中するため。考えられるリスクは徹底的に排除しようと。①頭を丸めたのは、朝起きて寝ぐせを直す暇があったら畑に出たいから。②親知らずを抜いたのは、痛みはなかったけど、急に痛くなって仕事を休むなんてあり得ないと思ったから。③スノーボードをやめたのは骨折して働けなくなってはいけないから。④ギターをやめたのは、練習時間ももったいないから。⑤盲腸も急にお腹が痛くなって仕事を休むことがないように前もって切除するつもりだったけど、周りのみんなに『お前はバカか』と止められたので断念しました(笑)」。生半可な覚悟では真似できないプロ根性。盲腸は無事とのことで何より(?)。

 「親知らずを抜いたのは、旅をしたいこともあって。旅先で大量出血を伴う治療をすると、不衛生なところだとエイズなどの感染リスクがあるので」という今田さんは旅好きでもある。旅といってもほのぼの観光旅行ではない。インドには三回訪れたというが、タージマハルは一度も見たことがないという。
 「初めてのインド旅行ではコテンパンにやられました。テロ予告が出て街がロックダウンされたんです。伝説の女将さんといわれる有名な人がいて、ちょうどその人のもとにいたのですが『どこにも行けないしホテルにこもるしかない』と言うとすごく怒られたんです。『お前は男だろう! 今から街に出ろ』と。テロですよ?(笑)でも反論できるような相手ではないのでしぶしぶバッグを持って街に出ようとしたら『バッグなんか持っていくから観光客と思われて撃たれるんだ。置いていけ』とまた怒られて、必要最低限の物だけ持って街に出ました(笑)。結局、危険な目には遭わずにすみましたけど」。テロの街に飛び出しただけでも十分危険な目に遭ったといえると思うが…。ほかにも1~2時間監禁のような形で閉じ込められて生きた心地がしなかったという経験も。
 「インドなんか二度と行くか! って思うんだけど、帰りの飛行機に乗る時にはなんだかさみしくなるんですよね。インドは行きたくていくところじゃなくて、呼ばれて行くところだと思っています(笑)」。

 初のインド旅行で人生最大のコテンパンにされた今田さん。「あそこはまだ僕のレベルで行くところではない。訓練が必要だ」とその後はカンボジア、タイ、ネパールなどをめぐった。
 そして再びインドの地を踏んだ。ブッダが悟りを開いたとされるブッダガヤではお寺に滞在し、座禅を学び、カルカッタではマザーテレサのボランティアに参加した。「死を待つ人の家」でひたすら洗濯と掃除。「生きているかどうか分からないくらい硬直した人、見たことないほどに顔が腫れ上がった人、足がない人、そんな人たちの家でした。足がない程度なら働けるから幸せだと感じるくらいの状況なんですよ」。
 集まるボランティアの人たちは「誰かのために」という思いもあるだろうが「ここで心を洗いたい」「学びたい」という姿勢で自分の意思で臨んでいるのだという。「日本では災害復旧などで『誰かの役に立ちたい』とよく聞きますけど、そういった人たちが『ボランティアに保険はかけていますか?』とか言っているのを聞くと疑問を感じます。そんなのは自分でかけておけと思います」。
 今号の記事を読んでいただければ、今田さんが「間違いを見て見ぬふりをする事なかれ主義」になれない性分だということを感じていただけると思うが、今田さん自身も「そういった経験をしたから、事なかれ主義は違うって考えるのかもしれませんね。マザーテレサだったらどうするか? マザーテレサ基準で考えてます(笑)」。

 中川農園で1年間の研修を終えると、広島市の農業試験場で1年間の研修生活がスタート。しかし「盲腸を切除するほどの気合いで勉強していた僕にしたら、この研修は余裕過ぎて、朝から夕方までのカリキュラムだけど、本気を出したら2時間で終わる。だからこの研修期間にもインド旅行に行ったんです(笑)。同じく余裕だった中岡も研修中に別のアルバイトをしていて。決められたことができていれば帰ってもよかったんですけど、僕らがひどかったからですかね、翌年から夕方5時までいなければいけないことになったようです(笑)」。
 この研修を無事(?)卒業し、いよいよ独立。市に農地を斡旋してもらい、今田さんは安佐南区沼田町吉山でスタートとなった。27歳だった。
 もともと今田さんには独立するならできれば生まれ育った川内地区でという思いがあった。研修前、川内の広島菜栽培において父親的存在である倉本さんにその思いを伝えたが、宅地化が進む川内における農業の将来性の厳しさを考慮し、倉本さんは親心で「ダメだ」と答えた。たとえ今、農地を借りて独立できたとしても、農地の持ち主が代替わりなどで相続し宅地化することになれば、農地を返却しなければならない。つまり農地を失ってしまうことになるからだ。
 こうして2007(平成19)年、ブッダが生まれた村の名を冠した「ルンビニ農園」が誕生。10棟のビニールハウスで小松菜の栽培が始まった。

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掲載記事内容は取材当時のものであり、
現在の内容を保証するものではありません。